元死刑囚の精神鑑定書の出版を考える

2001年6月8日、宅間守・元死刑囚が大阪教育大附属池田小学校の
教室に乱入し、8人の1,2年生を殺害し、15人の児童・教師に
重傷を負わせた事件では、2003年8月に大阪地方裁判所で死刑判決
が言い渡され、2004年9月に死刑が執行された。


それから約9年。宅間・元死刑囚の精神鑑定書のほぼ全文が記載
された本が出版されることになった。


出版については賛否の意見がある。マスコミはこういうとき、自社
の見解や方針を明らかにしない。
東京新聞も両論併記。ジャーナリストの江川紹子さんが賛成意見、
慶応大学の安冨潔教授(刑事法)が反対意見。


江川さんの考えは、刑事事件の確定記録は本来、だれもが閲覧できて
よいはずだ、事件の検証をするために記録に当たることを特定の職種
だけに限定すべきではない、というもの。
これに対して、安冨教授は正反対。「研究目的ならば学会誌などで
発表すればよく、一般書として出版する必要はない」。専門家だけが
見られればいいというもの。


私は職業柄、鑑定書などをみる機会はふつうのこととしてある。精神
鑑定書を読んだことも幾度かある。よくできている鑑定書はとても
説得力がある。
こういう専門的な文書を専門家以外が読んでいいのか、という問に
対しては、私は読んでいい、というより、多くの人に関心を持って
読んでもらいたいと思う。「面白半分で読む人がいるかもしれない」
という危惧感がないではない。しかし、きちんと書かれた鑑定書は
遊び半分に読めるような代物ではない。読み進むうちに考えさせら
れる。すべての人とはいかないかもしれないが、ほとんどの人が
真面目に読んでくれると思う。


ただ、そうすると、本人のプライバシーはどうなるのか、という問題
がある。
それに対しては、プライバシーは絶対ではない、制限されてもやむを
得ない場合がある、という一般論がある。


殺人は社会悪だ。殺人者が事件に至る経過やそのときどきの心情や
心理分析などが情報として社会に提供されることは、社会的に大いに
意味があるのではないか。


なぜ、宅間・元死刑囚が多くの子どもたちを殺傷するような事件を
起こすことになったのか。
社会がこの原因や背景を直視し、しっかり考え、だれがどのように
動けば、このような事件は起こらずに済んだのか、あるいは、将来
起こらないようにするために、だれがどのようなことをすればよい
のかが少しでも具体的にイメージできれば、第二、第三の同種の事件
の発生を防げるかもしれない。少なくとも、だれもがこのような問題
に全く関心を持たない社会よりも多くの人々が関心を持つ社会の方が、
発生の危険度は低いのではないだろうか。


自分の記録が精神科医の手を経て出版という形で社会に出ること。
それは、陰惨な殺人事件が起こりにくい社会になるために、殺人者
だけができる社会貢献の形ではないか。


過去の悲惨な事件の検証を一部の専門家だけに委ねればよいという
ことは、国民のほとんどは無関心でよいと言っているのと同じだ。
しかし、そんな国民は悲惨な事件が起こるたびに「犯人を死刑に」と
叫び、遺族も「犯人に死刑を!」としか言えないような雰囲気をつく
る。これにマスコミが拍車をかけ、裁判所がやすやすと期待に応える。
そんな社会でよいのか。