批判とバッシング

 批判とバッシングはちがう。
 日本テレビの番組「明日、ママがいない」に対する抗議、村上春樹の作品
「ドライブ・マイ・カー」の中の1行に対する抗議。どちらもピンと来ない。
つい、本気?と疑ってしまう。どちらも、一方的なバッシングであって、
番組や作品に対する批判になっていない。

 批判とバッシングはどこがちがうか。

 まともな批判は、相手を貶めない。発言者の意見表明について、その背景や
動機も含めて全体的に捉え、ごく一部の不十分なところは大目に見て、本質的な
重要問題がどこにあるかということを、発言者にもそのほかの人たちにも理解
納得できるように配慮して行うものだ。

 バッシングは、自分が考えていることを正義と決めつけ、強い口調で一方的に
訴えるだけ。ときとして、相手の人格攻撃にも及ぶ。発言者に対する配慮はない。

「差別だ」「いじめだ」と大声を出せば、世の優しい人々はみんな自分の側に
なびき、言われた相手は大人しく従うようになる。
 この国がそんな単純思考社会でいいのか。

 民主主義社会で、言論の自由として尊重されるべきは、相手に配慮したまともな
批判であって、バッシングではない。だれもが、自分が言おうとしていること、
書こうとしていることが、バッシングにならないよう、常に自分自身を警戒する
必要がある。
 民主主義社会で最も危険なのは自分かもしれない。そういう注意深さがあっても
いいと思う。

 そうすることで、意見がまったくちがうと思っていた人とも、少しずつ対話が
できるようになり、自分の視野が少しずつ広がる。年齢、性別、国籍を問わず。
意見や考えの異なる人との関わりが広がるのはおもしろいものだ。
 バッシングにはそういう未来はない。