集団的自衛権を考える・・・前に

 自衛とは自らを衛るということ。
 集団での自衛を考える前に、自分自身(自国)を自ら衛るということをしっかり考え
る必要があるのではないか。

 韓国や北朝鮮、中国の知人(いいヤツもいれば、嫌なヤツもいる)を思い浮かべな
がら、東南アジアに暮らし者同士としてどういう関わり方をすれば、良好な関係を築
けるのか。おひとりさまサイズの個別的自衛観。

 一昨日から昨日にかけて田舎の実家に行って来た。その行き帰りでの電車の中。
 偶然、行きも帰りも、目の前の座席に若いお父さんが小さい子どもに膝枕をして
やっていた。母親らしき人は近くにいない。父子のふたり旅らしい。子どもは一人分
の座席に横になってぐっすり。お父さんはゲームに夢中。電車が空いているうちは
いい。それが、電車がいくら込んで来ようが、高齢の女性が目の前に立とうが、お
構いなし。ゲームに夢中。寝ている子どもを抱いて席を空けようとするどころか、子
どもが席から滑り落ちないように、ゲームに使っていない片腕を柵代わりに伸ばす
だけ。
 お父さんはゲームの中ではきっと悪い奴らを次々にやっつけているにちがいない。

 子どもの虐待も問題だけれど、こういう態度も問題だ。どちらも、自分の狭い視点
でしか考え行動していないという点では同じではないか。

 自分がゲームを楽しむことを最優先し、わが子のことしか考えない大人の男が、
日本という国家を守るという大義を持つことができるのだろうか。それとも、ひとり
ひとりにそんな大義はいらないのだろうか。

 快楽優先社会では、集団的自衛権を認める認めない以前に、人々は、事態が自
分にとって過酷なものになるまでは、為政者に全面的に従属し、為政者が倒れそう
になった時点で、不都合な展開の責任をすべて為政者に転嫁する。お任せ民主主
義の行き着く先はそんなものだ。集団的自衛権を考える前に、だれもが自分サイズ
でこの国のあり方、あるべき方向を考える必要がある。