なぜ、校長、教育委員会なのか?

 長崎県佐世保市で県立高校1年の女子生徒(15)が殺害され、同級生の少女(16)が逮捕された事件の報道を
みていたら、いつものことながら、加害・被害少女が在席する中学校の校長が出て来て、困惑した表情で、「いつも
どおりの説明」をしていた。

 学校長は管理職だから、生徒ひとりひとりのことを知っているはずがない。だれか(大抵は担任の先生)の報告を
受けて、教育委員会と相談した上で、無難なことを言うことしかできない。正確な詳しい事情を知らないし、知ってい
たとしても自分から言い出すことはできない。当然、説明は形式的にならざるを得ない。

 それをわかっていて新聞・テレビは記者会見を求め、応じさせ、「報道」する。
 同種の事件が起こったときに、常にマスコミが求める報道パターンに合わせて応じているだけの儀式だ。
報道として必要か疑問だ。

 市議会の市教育委員会に対する追及ぶりも報道されていたが、市議会の追及に疑問。
 市議会は、少女が小学6年生のときに家から漂白剤や洗剤を持ち出し給食に混入した事案を取り上げ、当時の
市の教育委員会の対応をただす声が上がったという。何を問題にされたのかというと、当時の対応について、「市
議会に報告しなかった点」「その後の県教委の対応については知らない」と話したことに対するものらしい。

 一小学生の異常行動を議会にいちいち報告してどうするのか。議会が責任を持って継続的に教育委員会、学校
を助けてくれるのか。一小学生を助けてくれるのか。小学生のときから学校が一貫して加害少女を監視し続けてい
るべきだったとでもいうつもりか。言いたい放題のことを言われるだけなら、だれだって報告なんかしたくない。
 今この時期に教育委員会の過去の対応をどうこう言うのは筋違いだ。

 パターン化された報道を繰り返しても意味がない。

 だれもが、最初に疑問を抱くのは、親のいる15歳の加害少女が学校にほとんど通わないでアパートで一人暮ら
しをしていたことではないか。なぜ、そういう生活を選択せざるを得なかったのか。親に切り離され(あるいは、親を
切り離し)、学校にも適応できなくなってしまった少女。少女の生活の中には日常を共有する人がひとりもいない。

 自分はどういう精神状態になってしまうだろうか。少し想像するだけでも、大人の自分でさえ恐怖心を抱く。まして
や、まだ15歳の少女。どうすれば抜け出せるかなんて、具体的な方法を見い出せるはずもない。抜け出せない生
き地獄・・・か。かなり辛い、ひょっとしたらそれさえ感じなくなっている人生を強いられているのかもしれない。
 そこに、「命を大切にする」という価値観は存在するのだろうか。

 このような環境は加害少女ひとりでは作れない。本来、彼女のもっとも身近にいるはずの親の対応選択が決定
的に影響しているはずだ。この事件では、まだ、親の説明、コメントが出ていない。マスコミが親の人権を配慮して
いるためなのか? 学校長や教育委員会のことを取り上げる一方で、少女に相対していたはずの親に関する情報
が、新聞・テレビの報道には無さ過ぎる。
 親を攻めろ、と言うのではない。
 親が沈黙したままで、少女に何をして来たのか、少女のことをどう考えているのかが何もわからないまま、加害少
女の過去の異常なエピソードを探し出して、少女の異常性ばかりを強調する報道はおかしいのではないか。