問題は萎縮ではなく自粛だ!

 秘密保護法の施行を間近に控え、マスコミの記者からは「報道が萎縮する
ことはないか?」という質問をよく受ける。

 昨夜、衆議院第二議員会館でOGP(オープンガバメント・パートナーシップ
)についての初めての院内集会があった。集会に顔見知りの記者が幾人か
が来ていたので、集会後、晩御飯を一緒に食べながらこの話題についても
意見交換した。

 問題意識を持っている人たちばかりだったので、場は盛り上がった。

 わたしは「問題は萎縮ではなく、自粛でしょ」と指摘した。
 すでに日本のマスコミは、裁判を起こされるまでもなく、政府に抗議される
までもなく、インターネットで非難されるまでもなく、そのようにならないように
十分に配慮した報道しかしなくなっている。
だれか(例えば、最近では小渕優
子議員)を攻撃する記事がすべてのマスコミにわっと広がるのは、「この人を
攻撃しても反撃はできない。国民だれからも喝采されることはあっても痛烈に
批判されるようなことはない」と、各社が情勢(空気)を読み切って横並びでや
っていることだからだ。

 これは権力批判のジャーナリズムではない。

 これに対して、「小渕優子議員の批判記事を出すことは安部政権に対する
批判だ」と弁解する記者がいるかもしれない。

 ちがう。
 安倍政権に対する批判であれば、閣僚の個人攻撃ではなく、安倍政権の政
策そのものの誤りを具体的事実をもって指摘し批判すべきだ。そうでなければ、
読者国民は安部政権の政策の誤りを記事から読み取ることはできない。政策
以外で安倍政権を攻撃する記事を喜ぶ国民もいるだろうが、それはその場限
りの「祭り」でしかなく、国民に政策の是非を考えてもらう契機にはならない。

 昨夜、一緒だった記者たちは所属会社がちがてちたが、だれもがわたしの
指摘に同意した。
 
 「だれもが面倒をいやがるような会社になってしまっている」
 面倒をいやがる。
 だれからも批判されない記事を出しているだけの方が、仕事としては楽な
のだ。
定時に出勤し定時に働き定時に退社する。その繰り返し。社内の人間
関係の安定。生活の安定。自分たちが働いている間だけでも収入が安定して
くれていれば。そういう思考が当たり前になっている。

 だれにも全く批判されないような報道。それを日々実行しているのが、いま
の日本のマスコミ報道だ。面白味などない。売れなくなるのは当然だ。

 そういうマスコミが「秘密保護法は取材の自由、報道の自由を萎縮させる」
と言ったところで、そうかなあ?自粛に慣れ切ったマスコミがとんでもない面
倒なことになることが確実に予想されることに手を出すことなんてあるのだろ
うか
と思わざるを得ない。