「イスラム国」でのふたりの日本人の死をどうみるか

 湯川遥菜さん、後藤健二さんの死に私たちはどう向き合うべきなのか。
 彼らが殺害されるまでの経過を振り返ってみると、彼らは各自の意志で自分の行動を明確に
選択している。彼らの生き方の選択の結末に死が待っていたということができる。

 「イスラム国」(彼らの支配地域)では、湯川さんや後藤さんが殺害される前に幾人もの人たち
が無残な公開処刑を受けて亡くなっている。そういう危険な地域であることは世界中に知られて
いた。

 平和な国から突然「イスラム国」に拉致され一方的に殺害されたということと、「イスラム国」が
危険な地域であることをわかっていて、そこに多くの知り合いがいて自分の命を守ってくれると
いう保障がない中に、単身で出かけてゆくこととでは、死という結末が同じであっても、社会が
持つべき関心のあり方は全く違うのではないだろうか。

 前者は平和な社会地域に暮らす人々の生命を守るという問題であり、政府は平和な社会を
守るための具体的な対策を講じる必要がある。
 これに対して、後者は個人の生き方(裏返しとしての死に方)の選択の問題であるから、政
府がなし得るのは、事前に危険な地域に行かないようにという助言をすることができるだけで
あって、阻止することはできない。

 湯川さんと後藤さん。
 ふたりの結末(殺害)は同じだったが、そこに至る生き様も、「イスラム国」地域に足を踏み
入れる目的もまったく違う。
 湯川さんは最初、「イスラム国」と対立する側で身柄を拘束されており、その後、後藤さんに
助けられたのに、「イスラム国」に身柄を拘束されている。一体、どんな信念があってそこに行
ったのか全くわからない。湯川さんの生き方にどのような共感ができるのか、わたしにはわか
らない。
 後藤さんが一貫して平和を志向して行動していたことははっきりしている。彼の志に共感す
る人はたくさんいるだろう。

 報道は「同じ命」という括りをしようとしていたが、明らかに無理があった。それは、だれに殺
されたかという結末が同じでも、そこに至る過程があまりにも違い、生前、彼らに関わっていた
人たちもそのコメントも全く異なっていたからだ。それを無理やりふたりを並べられても、視聴者
読者は、ふたりの命が奪われたことについて同じ評価をすることができるだろうか。できないの
ではないか。それは生き方の違いを見せ付けられてしまったことで、それを含めての評価にな
らざるを得ないからだ。

 そして、彼らの生と死を無理やりひとまとめにして考えようとしたとき、日本社会も日本政府
も明確な考えを持つことができなくなる。どちらも同じように受け容れるには、各自に各自の
生き方があるという視点からしかないのではないだろうか。

 政府は「テロに屈しない」と言っているが、ふたりが殺害されたのは日本の法律が適用され
ない(したがって、日本の法律で日本の政府に守ってもらえない)場所であって、日本国内で
テロが起こったわけではない。国交のない、およそ安全の保証がない地域に出かけて行って、
そこで殺害されたのだ。日本社会の安全の問題ではない。

 死にたくないなら単身で生命の危険のある場所に行くべきではない。それがふたりの死か
ら私たちが受け取るメッセージだ。それだけだ。
彼らの生き方に共感するものがあれば、そ
れは自分なりにどういうことができるか、するかということであって、日本国家としてテロ対策
を強化するということには結び付かない。

 日本と中東地域の関係は、ふたりの死をきっかけに大幅な変更がなされるべきではない。