「指導」と「しつけ」を考えると

北海道の男の事件では親の「しつけ」のあり方が問題にされている。
そこですぐに思いつくのが学校の先生の「指導」。

学校の体罰が発覚すると、学校は「指導の一環だった」と弁解し、親が子どもに過度の
負担(精神的・肉体的)を与えたことが問題にされると、親は「しつけのつもりだった」と弁解する。

で、どこまでが指導として許されるか、どこまでがしつけとして許されるかという限界論
が語られる。法律論として、どこからが不法行為になるか、犯罪になるかということを考
える上では、限界論を議論することに意味がある。

しかし、議論すべきことはそれだけではない。
と言うより、もっと重要なことは、「指導」「しつけ」という言葉が発せられる場面で人間
関係がどうなるか
である。その言葉が発せられるとき、その言葉をイメージしたとき、そ
の場にいる人は、「指導」する側とされる側に、「しつけ」る側と「しつけ」られる側にはっ
きり分かれる。する側はされる側の上に君臨する。君臨する側がどこまで自覚するかど
うかはともかく、君臨される側はそのことに気づく。そこには対等な人間関係はない。
そこでは対等な対話は成り立たない。
そこで、される側が心から納得する回答が出て
来るだろうか。する側の考え方の押し付けにしかならないのではないか。

押し付けにならないようにするには、「指導」しない、「しつけ」ないがいい。
では、放置か。とんでもない。
相手の上に君臨しないで、「どうしたもんじゃろのお」と一緒に考える関係性を作ること
だろう。「指導」や「しつけ」の方が簡単に教えられるんだけどと思っても、そこを踏みと
どまって、「どうしたもんじゃろのお」と一緒に考える。どこが問題か、どうすればいいか。
なかなか分かり合えない。なかなか正解に辿り着けない。しかも、辿り着いたところは、
「指導」「しつけ」をしようとした側の者からすると、きっと、「ちょっと違うんだけどなあ」
というものかもしれない。それではダメか。ではないだろう。思いどおりの結論に辿り着
けなくても、そこまで一緒に考えた者同士として、「ま、こんなもんかな」と受け止めるこ
とでいいのではないだろうか。で、違っていたら、また、「どうしたもんじゃろのお」と一緒
に考える。