「中居正広さん問題」ではない
いま、フジテレビを大混乱に陥れているのは中居正広さんではない。
フジテレビ幹部のお膳立てで女性アナウンサーに対する性加害を行ったことが露見してしまったのが、たまたま中居正広さんだったというだけのことで、性加害を行ったのが中居正広以外の人だったとしても、幹部に事件が伝わったあと同じようにスルーしたのであれば、同じように大問題なのだ。
これまでもフジテレビ幹部の対応をみていると、どうもだれが性加害を行っていたとしても同じようにスルーしただろうことが予測できる。病根はフジテレビの組織にこそある。中居さんは軽率にもその上で踊り、踊らされていたのだ。
性被害を受けた女性アナウンサーにとって中居さんは加害者だが、もっと悪いのはフジテレビだ。
だれのための秘匿か?
性加害者は性加害事実を公にしない理由として常に「被害者のプライバシーを考えてのことだった」と言う方をする。
たしかに性被害者は屈辱的な体験を多くの人に知ってもらいたいとは思わない。そんなことになれば、ますます自分を貶める人たちが無数に出て来るだろうから。自分の人生を立て直すには事件は公にならない方がいいのだろうと考える。
が、これは加害者の術中にはまってしまった考えだ。
加害者側は事件が公にならないことでそれまでどおりの私生活、社会生活を続けることができる。すぐに被害者のことなど忘れる。そして次の加害行為を行う。それも、これまでと同じく被害者に口止めをする。
加害者は好き放題のことをして楽しくて仕方がない。
今回の事件。女性アナウンサーを餌食にした中井にしてもお膳立てをしたフジテレビ幹部にしても何も傷つかない。どちらも女性アナウンサーの犠牲によって楽しんでいる人たちだ。
それが事件直後に幹部の知るところになってもスルーされてしまった。これがいままでの、そしていまどきのフジテレビなのだ。社会にバレさえしなければなんでもOK。加害者が中井でなかったとしてもフジテレビ幹部は同じ対応をしたのだろう。
中井は引退メッセージで自分ひとりが悪いと書いていたが、本当にそう思っているのか疑わしい。中井ひとりが悪いのであれば、中井が芸能界を去ることで女性アナウンサーは性被害を受けなくなるはずだ。しかし、そうはならない。フジテレビ(の幹部)が性加害についてどうしようもない無神経、無責任なのだ。
だれのための秘匿だったかは明らか。中井のためである以上にフジテレビのためだったのだ。
だから、フジテレビは大改革をしなければ信用を回復できず潰れる。幹部を全員入れ替える必要がある。
今回の事件の被害女性に限らず性犯罪被害者は必ず加害者に口止めをされ、自分を責める気持ちもあってそれに応じてしまいがちだ。しかし時間はすべてを解決してくれない。年月が経っても被害者は性被害を忘れ去ることはできない。常に「自分はほかの人とは違う」と自分を低く見てしまいがちだ。自分ひとりの心の中だけでは解決できないのだ。何が解決できるかはともかく自分ひとりで抱え込まないで、だれかに信頼できる人に話すこと。相手が親身に聴いてくれるところから次の展開をどうするか考えればいい。
公にするかどうかではなく、だれかに聴いてもらうことから始めればいい。
フジテレビが生き残るために
フジテレビの社長の記者会見は、これがテレビ局のトップがする記者会見かと驚くほどひどい、自ら墓穴を掘ったとしか言いようのないものだった。
社長はフジテレビの生き残りを真剣に考えているのだろうか。自分や自分の取り巻きの生き残りを考えているかのようにみえる。そこに本心があるとすれば、フジテレビはおしまいだ。
フジテレビが生き残るためにすべきことは何か?
女性アナウンサーの上納に関わっていた幹部(女性アナウンサー幹部も)だけでなく、知ったあとごまかし切ろう、逃げ切ろうとした幹部たち、全員がいまの立場から身を引いて、人事を一新し新生のフジテレビに切り替えるという方針をはっきり打ち出し、ぶれないこと。
第三者委員会はその入口に向かうための手段とし、だれかにとって都合の悪い事実は公にならないようにして、だれかが生き残れるようにするという打算を一切入れないこと。
これをフリージャーナリストも入れた実況記者会見ではっきり説明すること。答えたくない質問であっても答えるべき質問には答える。すぐに答えられない質問にも逃げないでできるだけ速やかに答えられるよう努力すること。
その方向に進むことがはっきりすれば多くの社員は仕事に励めるし、スポンサーも戻りやすくなる。
フジテレビ幹部自らフジテレビがなくなるようなことをしていてはいけない。
よくできているのかもしれないが、こどもデータ連携ガイドライン(素案)
先月、こども家庭庁が募集していたパブコメに、こどもデータ連携ガイドライン(素案)というのがあった。いじめや貧困など問題を抱えていても救いの手が届かない、そんな子どもたちを、自治体の関係組織が連携して助けよう、そのために子どもたちの個人データを連携して使おうというもの。「SOSを待つことなく、プッシュ型・アウトリーチ型の支援につなげることを狙いとする」のだそうだ。
(素案)は全体的にみて、事案に対応できそうな大人の組織やグループが子どもの個人データを共有することで、これまでの分断されていた関係よりも問題解決をしやすくできるはずだという考え方で作られている。それ体はこれまでの分断関係よりもよい方向に向かう可能性を感じさせなくはない。
しかしこれが解決の主要な手段になるか、していいかは大いに疑問だ。
データ連携は便利なようでいて、初歩的な問題が常につきまとう。入力したデータが正確かつ最新かつ十分になっているか。不正確でも古くても不十分でもデータを読んだ人は判断を誤る。いくつもの組織がデータ連携する場合、正確かつ最新かつ十分という要件は全国で常に充たされ続けるという保証ができるか。無理だろう。
「SOSを待つことなく」ということは、役所が先回りをしているということ。子どものデータを常に集め、共有しているから、子どもが困っていることを相談するようになる前に救いの手を差しのべる。子ども全体を監察(監視)対象として位置づけている。子どもは大人の監視対象。それでいいのか。
専門家の大人たちが情報連携して解決する仕組みを充実させてしまうと、子どもは大人に頼っていればよいという客体になってしまい、自分で考えて解決してゆかなければならないという主体性は育たない。
子どもの世界で日々起こっていることは子どもたちこそがよく見ていて、よく知っている。大人が気づかないうちに子どもたちが解決することは無数にある。子どもたちだけの力では解決できない問題は、大人に相談したり協力してもらったり、大人に解決してもらうしかないこともある。それでも、何でも最初から大人に任せるのではなく、自分たちにできることはできるだけ自分たちでする。そういう主体性を育てることこそが最優先課題なのではないか。
30年後の迷宮~飯塚事件
1992年2月に福岡県飯塚市で起こった2人の女児(小学一年生)の殺害事件は、2年7か月後に女児の顔見知りだった久間三千年が死体遺棄・殺人・幼女誘拐で逮捕され、終始全面否認のまま、一審、二審ともDNA鑑定などを証拠として犯人と断定され死刑判決を受け、2006年9月8日に最高裁で死刑が確定し、2008年10月28日に死刑執行された、すでに「終わっている」事件である。
この事件はDNA鑑定に問題があったことと、死刑確定から死刑執行までが2年という短さに驚いた記憶がある。死刑執行の順番は死刑判決確定した順でないことは実務としてわかっているが、それにしてもたった2年はあまりにも短すぎる。
岩田務弁護士、徳田靖之弁護士が久間死亡後の再審請求で悪戦苦闘していることは知っていた。
ドキュメンタリー映画『正義の行方』は、2022年4月にBS1スペシャルとして放映された『正義の行方~飯塚事件30年後の迷宮~』を映画化したもので、いま、東京、横浜、大阪、福岡で上映されている。
当時、警察官、新聞記者、弁護人として関わった人たちが、実名顔出しで、当時のそれぞれの考えや動きと、現在振り返っての考えを語る内容。
警察官はすでに退職していることと30年という時間が経過していることもあって、本心で話していることが画面から伝わってくる。刑事法廷や国賠訴訟法廷で警察官のうんざりする証言を散々見てきた者からすると、元とはいえ警察官がカメラに向かってこれほど誠実に語るのを見るのは初めてだ。
他社を抜いてスクープ記事を書いた記者、この記事にゴーサインを出した上司の記者、30年後に彼らの記事を検証する記者たち、当時から現在まで悪戦苦闘する弁護士。当事者の語りだけで映画は進行する。
三者が三様に裁判、死刑に納得していない。元警察官らは久間の有罪を口にするものの、どこかそう言わざるを得ない自分の立場を否定しきれないもやもや感がある。新聞記者は自分たちのした仕事を否定はしないが、疑っている。弁護士は自分たちの仕事の至らなさに苦しんでいる。
30年後の迷宮には弁護士だけでなく、元警察官、新聞記者もいた。
こんなドキュメンタリー映画をよく作れたものだと思う。必見!
止まらない投票率の低下
日曜日(10月22日)に2つの補欠選挙があった。1つは衆議院長崎4区、もう1つは参議院徳島・高知補選。
報道はどこも「与党が勝った」「野党が勝った」を大きく取り上げていたが、国政選挙として社会的にいちばんの事件だったのは、どちらも投票率が過去最低だったことだ。補選だからということがあるにしても、低い。
長崎4区の投票率は42.19%で一昨年の衆議院選挙の長崎4区の投票率と比べ12.89ポイントも低くなった。過去最低だった平成26年の衆議院選挙よりも10.25ポイント低くなり、過去最低を更新した。
徳島・高知では、徳島県が23・92%、高知県は40・75%で、両県とも参院選としては戦後最低になった。
投票率が下がるのは政治に関心がないか。そうとは言い切れない。政治がまともにならなければ生活がよくならないことくらい、だれもが薄々気づいていることだ。それなのに投票所に行かない。それはいまの与党にも野党にも期待できないという消極的なあきらめが広がっているからではないだろうか。多くの人、特に若い層にはそういう政治がいま行われているように見えるということではないか。高齢者が投票所に行くのにしても、政治意識が高いからというより、長年のしがらみがあるからではないかと疑うと、こちらもあまりまともとは言えない。
マスコミにはどの政党の候補者が勝ったということよりも、なぜ、過半数の選挙人が投票所に向かわないのかという地味な問題にこそ目を向けてほしい。そして、選挙人が投票所に向かうようになるには、何がどう変わればいいのかを探ってほしい。
太田光の長過ぎる弁解の空虚さ
太田光は本当に「旧統一教会」の擁護者なのか 著書で明かしていた“真意”とは
AERAdot. 2022/10/23 11:30
を読んだ。
長い。読めば少しは納得できるのかと思ったら、全然そうはならなかった。もともと太田光の変化球的な話の危なさと核心を突いている感じは嫌いではなかったので、読み進むうちに、なるほど、そういうことだったのか、と納得できるところがあればいいと思いながら最後まで読んだのだが、そうはならかった。ただ、感覚的なダメ出しは、その先の議論を止めてしまうので、どこがどう問題なのかを順を追って考えてみることにした。関心のある方はどうぞお付き合いください。
≪「サンデージャポン」(TBS系)での世界平和統一家庭連合(旧統一教会)をめぐる発言で、毎回大炎上している爆笑問題の太田光。ネットでは「#太田光をテレビに出すな!」がトレンド入りすることもあった。太田は本当に旧統一教会の擁護者なのか。その発言の真意とは。今年9月に発売された著書『芸人人語 コロナ禍・ウクライナ・選挙特番大ひんしゅく編』(朝日新聞出版)の「あとがき」では、旧統一教会に多くの紙幅を割いて言及している。期間限定で特別配信する。≫
とあった。発言の真意とは、とあるが、太田光氏はこれまで真意を発言していたのではなかったのか。いや、真意だからこそ、だれに何と言われようが、繰り返し同じことが言えたのではないか。
旧統一教会のことは途中から・・・
≪先日行われた参院選のさなか、奈良で演説中の安倍元首相が暗殺された。
手製の銃で安倍氏を撃った山上容疑者は、旧統一教会に恨みがあり、教団の関連団体にビデオメッセージを送った安倍元首相を狙ったと供述しているという。
安倍元首相が亡くなった二日後、通常通り参院選挙の投票が行われた。
私は再び選挙特番のMCをし、今度はおとなしく礼儀正しくやったつもりだが、明くる日のネットニュースでは、「太田炎上せず。期待外れ」と書かれていた。
八月現在。テレビでは連日自民党と旧統一教会の関係が報じられている。
(中略)
現在政治と旧統一教会の繋がりが連日報道される中で、安倍元首相を暗殺した山上容疑者のことはあまり語られなくなった。
当初、「宗教団体に恨みがあった」「政治信条に対する犯行ではない」などと、断片的に警察からリークされていた供述の情報も、あまり出てこなくなった。
テレビは自民党議員と旧統一教会の繋がりの追及に躍起になっている。一方向に過熱するのはテレビの悪い癖だ、と私は思っている。≫
悪い癖?
マスコミはいつもそう。マスコミ、特に民放は視聴率をとることが至上命題。昨今のNHK総合も。数の人々にウケようとするマスコミはいつだって一方向に過熱しやすい。それはテレビの悪癖ではなく本質なのだ。これを止めることはできない。私はNHKのEテレの番組が割と好きだが、視聴率はどれもかなり低そう。テレビなのにミニコミ的、双方向的な感じがいい。ミニコミはそれに参加する一人一人が顔見せで自分の考えを発信する。そういう仕組みになっていない、無数の人々にウケることを是とする情報伝達方法は、無数の人々一人一人に考える時間を与えないし、責任ある発言、行動する機会も与えない。だから、暴走する危険を常に孕んでいる。
そんなことをいまさら言っても仕方ない。
≪山上容疑者の人物像についてはほぼ考察されないまま、断片的に聞こえてくる供述だけをたよりに事件の全体像を決めつけて「政治と宗教」の話にしてしまっていいのか。私には迷いがある。≫
この時点で太田氏にはすでに重大な思い違いをしている。
太田氏は山上の人物像に関心があるようだが、彼がどのような人物だったとしても安倍元総理の殺人を正当化することはできない。社会が関心を持つべきなのは、山上が安倍元総理を殺害するに至った動機乃至背景事情だけで十分であり、それを越えて山上の人物像がああだこうだと言い合ったところでなんの意味もない。
太田氏が、断片的に聞こえてくる供述だけをたよりに事件の全体像を決めつけて、というのは、明らかに事実誤認。事件の全体像は山上の供述内容だけに基づいて決めつけているのではない。山上のこと、山上の家族のことをよく知っている人たち、旧統一教会の元信者、旧統一教会を長年取材して来たフリージャーナリスト、旧統一教会被害者弁護団の弁護士などが公に語ることで、事件の全体像は明らかになって来たのだ。
そこに安倍自民党政治と旧統一教会の異常な関係が見えて来たということなのだ。調べれば調べるほど異常さが鮮明になって来る。旧統一教会が日本人を信者にする過程が宗教法人のすることかと考えると、むしろ、詐欺・脅迫集団と言った方が実態に合っていると思う。ただ日本では、旧統一教会は宗教団体として承認されているので、「政治と宗教」という括り方になるだけのことだ。「政治と宗教」の話にしてしまうのではなく、そういう深刻な問題が骨がらみになっている”宗教”団体と、日本社会はどう向き合うかということなのだ。迷う余地はない。
≪山上容疑者の母親は統一教会の信者で、家の財産を全て教団につぎ込み家庭が破壊されたという。そのことで山上容疑者は、教団を恨んでいたという。今回の事件の目的は統一教会を成敗することで、教団と関わりがあると見込んだ安倍元首相を暗殺したのだそうだ。
事件後、様々なことが明るみに出つつある。
統一教会は世界平和統一家庭連合と名称を変更し、今も悪質な霊感商法を続けているとされ、被害者が多くいて、自民党とも関係があったことは事実のようだ。≫
≪私も知らなかったことがたくさんあった。そしてそれは、私だけではなく、報道するテレビも放置してきた事柄だ。≫
ここを一人の人間の行為のように言うのはまちがっている。テレビ局という組織は放置して来たのではない。テレビという情報媒体としての関心が向かなかっただけのことだ。社会的に重大な問題が起こっていても、マスコミの関心が向かないなんてことは、日々現場仕事をしている弁護士の目からすれば日常的なことで、あえて言うほどのことではない。でも、と言うか、だから、せめて重大な問題だと気づいたときにはしっかり報道しろよな、なのだ。
≪自民党と旧統一教会の関係に問題があるなら、追及すればいい。私が迷うのは、テレビは自分達も追及しなくていいのかということだ。≫
ここには論理のすり替えがある。
太田氏が言う、テレビが自分達を追及するとはどういうことなのか。太田氏はそのことを具体的に書いていない。ここにごまかしがある。自分達を追及できない奴が他人をとやかく言うんじゃないという論理らしい。これはテレビ局に「お前ら、黙れ!」と言っているのと同じだ。テレビが黙ったらどうなる。だれが一番喜ぶか。太田氏が気づいていないとは思えない。そこがずるい。
では、テレビが自分達を追及するということはどういうことか。それは旧統一教会の被害者に「報道しなくてごめんなさい」と謝罪することではない。テレビのすべき謝罪は、自分達がもっとずっと前にすべきだった取材報道を遅ればせながら実行することだ。それしかない。自分達が見落として取り組んで来なかったことに取り組むということは、形を変えた自分達に対する追及なのだ。それよりもマシな追及があるのなら、太田氏はそれを説明してほしい。
≪全国霊感商法対策弁護士連絡会(全国弁連)の人々の話によれば、彼らはずっと被害をマスコミや政治家に訴え続けてきたという。声を上げ続けてきたという。その声をすくい上げず、大きな問題にしなかったテレビは、自民党議員達と同じではないのか。≫
これはさらにひどい論理のすり替えだ。
テレビの怠慢と旧統一教会と自民党議員の蜜月関係が同じであるはずがない。呆れる。
≪私はテレビが好きだ。私にとって大切なのは、政治でも宗教でもなく「テレビ」だ。≫
好きだとか大切だとかは、この際、関係ない。
≪今、テレビは迷わず政治を追及している。私はテレビのこの「迷わなさ」が危ういと思っている。≫
迷わない(迷いを外に見せない)のがテレビの特性だ。その危うさはテレビに常に付きまとっている。いまさら言うことではない。しかし、そういうテレビでも、取材して事実を発掘する過程にはさまざまな迷いがあるし、それがいまどれほどの報道価値があると判断する過程でも迷いがあるだろう。全く迷いがないというのは、報道に関わっている者たちを見下している太田氏の決めつけだ。
≪私の出演している「サンデージャポン」は、二十年以上続いている、政治も社会問題も話題として取り上げる番組だが、今まで一度も統一教会の話題を取り上げた記憶がない。今の若いスタッフには統一教会という名前すら知らないのがほとんどだ。≫
マスコミはそのときどきの社会の関心ネタを探して報道しているだけだから、こういうことになるのは当然。
≪今のテレビの過熱報道のきっかけが、山上容疑者の元首相暗殺という実力行使であることも私の迷いの原因だ。犯人は、統一教会に恨みがあったと言われている。それが本当だとすれば、山上容疑者は自分の恨みを晴らす為に「言葉」ではなく、「実力行使」に及んだ。≫
「実力行使」という言い方はテロを彷彿とさせる。太田氏は山上の行為をテロと言いたいようだ。どのみち、それは犯罪として刑事裁判で責任が問われる。
山上は母親を奪った旧統一教会を恨んでいる。安倍元総理を狙撃した前日にも旧統一教会の事務所の建物を撃っていたことからも明らかだ。
太田氏は続けて、「それが本当だとすれば、山上容疑者は自分の恨みを晴らす為に」と書いているが、これも一方的な決めつけだ。山上が安倍元総理を銃殺したことが恨みを晴らす為だったのなら、恨みを晴らした山上はいま晴れ晴れとした爽やかな気持ちになっているはずではないか。山上がそういう供述をしているという報道はない。山上はかつて自分に優しかった母親を取り戻したかったのに、それがどうしてもできなかった。希望はどんどん細り、ついに絶望になってしまった。社会で生きる希望をすべて失い、自分の人生に見切りをつけた山上にとって、安倍元総理の殺害はもう社会生活を続ける気持ちがなくなった者の、形を変えた自殺なのだ。だから、安倍元総理を狙撃した山上は狙撃後、逃げていない。その場にいた。その場で警察官らに殴り蹴られて重傷を負っても、さらには撃たれて死亡したとしても構わないと思っていたからだ。山上の行動はそのようにみえる。
≪供述の言葉が本当なら、今のテレビの動きは、犯人の思惑通りに進んでいる。何かを主張する為の手段が、殺人であっていいのか、テレビはそこに迷いがなくていいのかと思う。≫
山上の思惑?
山上の思惑とは何だ。太田氏はだれから山上の思惑を聞いたのか。その内容はどういうものか。太田氏は山上の思惑の内容を書かない。まるで、トランプ元大統領が大好きな陰謀論だ。山上に思惑があったとてしも、だから何なのだ。テレビがもっとずっと早くから報道していたとしても、山上の母親は戻って来なかったかもしれない。しかし、テレビが早くから報道していて旧統一教会が日本でほとんど活動しなくなっていれば、安倍元総理は旧統一教会との協力関係を育んで選挙に利用することなどなく、縁が切れていて、7月のような死を迎えることはなかっただろう。
≪今のテレビと社会の動きを、宗教に限らず、潜在的に社会や何かの組織に対して不満を持つ人間が黙って見ている。言葉に無力感を感じ、誰も自分の言葉など聞いてくれない。言葉で訴えることでは何も変わらない。それでも今自分が置かれている状況を何らかの手段をもって変えたいと強く思っている人々が見ている。そういった人間達が、今回の社会の動きを見て、「実力行使は有効である」と考える可能性はある。そういう人達が、第二第三の山上容疑者にならないように、テレビは、「政治と宗教の関係」を追及すると同時に同じ熱を持って、「実力行使」は何の効果もないんだ。ということを、メッセージとして発信し続けなければならないと思う。≫
太田氏はどんどん自分の世界にのめり込んでいく。
言葉の無力。そんなことは、だれだって感じていることだ。だれでも切羽詰まるほど悩むことだってある。が、≪そういった人間達が、今回の社会の動きを見て、「実力行使は有効である」と考える可能性はある。≫は、おそろしく抽象的な可能性でしかない。実力行使が有効であるためには、実力行使をした後がどうなるかを実際的に考える知力がなければできない。しかし、それを考える知力がある人は実力行使の無意味がわかるから、実力行使をしない。
太田氏のそもそもの間違いは、山上の思惑=陰謀論に陥っているところに原因がある。山上の犯行に思惑はない。あれは自暴自棄に陥った人間の自殺だ。だから、その先の「有効」性など考えていない。
≪大変難しいことだが、テレビはその発信をやめてはならない。自民党や旧統一教会の有害さを追及するのと同時にだ。むしろそれ以上の熱量でだ。
私はそう思う。≫
それは報道ではない。太田氏は一体どういうニュースをしろと言いたいのか。
≪全国弁連の人々は、三十年以上にわたり、暴力ではなく、法に訴えてきた。どれほど言葉に絶望しても、言葉を何度も何度も繰り返し、実力行使ではなく、あくまでも言葉でメッセージを出してきた。
今回の犯人の行為はその言葉で闘う人々の努力を踏みにじるものだと私は思う。≫
弁護士の活動と山上の行為は次元が全然違う。弁護団は自分達だけががんばってきたなんて言っていない。そもそも被害者救済活動は弁護士だけが取り組んで来たわけでもない。言葉に絶望? いやいや、絶望していないから弁護団活動を続けているんですよ。弁護団から聴き取りをしないで、勝手な憶測で絶望させるな。山上の存在は、被害者家族はここまで追い詰められているという具体例なのだ。弁護士の努力を踏みにじっているというのは、太田氏の曲解、妄想だ。
≪これは私の推測に過ぎないが、おそらく全国弁連の人々は、今まで自分達の声が社会に届かなかったことに無力感を感じ、暗殺・テロというたった一つの行為によって社会やテレビの態度が豹変したことに対して、言いようのない悔しさと、苦痛を感じているだろうと思う。自分達の仕事を否定されたに等しいからだ。≫
≪これは私の推測に過ぎないが、おそらく≫というくらいなら、弁護団に直接問えばいい。それをしないで、≪私の推測≫を基盤にするのは救いがたい。
≪闘う為の武器はあくまで法であり、闘う場所は法廷でなければならない。そのことを一番信じているのが、弁護士の人々だろう。だからこそ、苦しいだろうと思う。その苦悩は記者会見で発せられた「私たちの力不足」という言葉に感じた。それでも、「この機会」を逃してはならないと、「毒を飲み込む」覚悟をしたのではないだろうか。本来なら、犯人の行為を徹底的に否定しなければならない法律家としての自分と、とはいえ、今の機会を逃すわけにはいかないという被害者の側に立ち、真実を追求する自分。≫
≪闘う為の武器はあくまで法であり、闘う場所は法廷でなければならない。≫は、支離滅裂だ。これは法律家である弁護士については当てはまるが、被害者家族には当てはまらない。法でもなく法廷でもなく、様々な方法を駆使して母親を取り戻そうとするのは、被害者家族として当然だ。法だ、法廷だ、とは何と的外れな。
≪そのことを一番信じているのが、弁護士の人々だろう。だからこそ、苦しいだろうと思う。その苦悩は記者会見で発せられた「私たちの力不足」という言葉に感じた。≫は、ますます脱線している。弁護士は法を駆使し法廷で戦うのは仕事だからであって、信じているのではない。弁護団の「私たちの力不足」という反省、苦悩は、被害者家族である山上を犯罪者にしてしまったことに向けらている。彼が法廷で闘わなかったことを「私たちの力不足」と言っているのではない。
≪その「二つの自分」の葛藤は、私には想像を絶する。迷いも苦悩も覚悟も。彼らの判断はおそらく苦渋の決断だと私は思う。そこには迷いや葛藤もあっただろうと。そして今も葛藤しているのだろうと。≫
呆れる。完全に自分だけの世界。
≪果たしてテレビはその苦悩を味わっているだろうか。覚悟をしているのだろうか。一瞬たりとも考えただろうか。
今の過熱する報道を見ていると私にはそうは思えない。≫
テレビは太田氏が言うような苦悩などする必要はない。テレビは自分がやるべきだと考えたことをやればいい。
≪今回の凶行で、山上容疑者が自分達の思いを代わりに遂げてくれたと感じている、容疑者と境遇が似ている二世信者がもしいるとしたら、彼らにテレビは言わなければいけない。彼は英雄でもカリスマでもない。ただの「凡庸な殺人者」に過ぎないと。それは「言葉」を諦めたからだと。彼を英雄視するのは、今まで信じていたカリスマを別のカリスマに代えるだけの行為だと。≫
被害者家族は元の生活を取り戻したいだけだ。それさえわかっていない太田氏。「凡庸な殺人者」は、ハンナ・アーレント『エルサレムのアイヒマン~悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)のなかで、エルサレムで行われたアイヒマンの刑事裁判を傍聴していたアーレントが、アイヒマンは稀代の極悪人などではなく凡庸な人だったことを明らかにし、悪の凡庸さの問題性を指摘していることになぞっているようだが、自殺願望の山上と何の罪もないユダヤ人を淡々とガス室送りしていたアイヒマンは全く違う。自分が読書家であることを自慢しているだけ。
≪言葉は簡単に人に届かない。社会は簡単に変えられない。幸福は簡単に得られない。簡単に天国へは行けない。たとえそれがどんなに残酷なことであっても。それが現実だ。それでも言葉を繰り返すしかないんだと。≫
自己陶酔の世界。
≪山上容疑者の供述が本当だとすれば、最初は教団の総裁を狙うはずだったが、諸事情が重なり叶わず、標的を安倍元首相に変えたそうだ。≫
≪ここから私が推測するのは、容疑者は状況によって標的を変えられるということだ。≫
ここからの妄想がますますひどい。
≪仮に安倍元首相の警備が厳重でそこでも目的が果たせないと判断したら、容疑者はまた標的を変え、今度は「教団を許容する社会が悪い」として、何の関係もない街ゆく人々を無差別に殺していた可能性もあるのではないかということだ。あるいは安倍元首相と同じようにメッセージを出していたトランプ元大統領を暗殺した可能性もあるということだ。≫
ない。
≪仮にそうなった時でも、テレビは今の報道と同じ方向に向かうだろうか。私はそうは思わない。今のテレビは何も自分の頭で考えていないからだ。≫
太田氏の≪仮≫は妄想。妄想を前提に論じるのはばかげている。が、どのような事態が起ころうが、テレビはそのときできる報道をすればいい。それだけだ。
≪「政治と宗教」というテーマには向かわず、宗教に母親が洗脳され家庭を壊された少年が罪もない社会の人々に向けた自分勝手な逆恨み、あるいは、日本人がアメリカの元大統領を暗殺したことに対する国際的な問題、というようなことに向いたのではないだろうか。≫
妄想の暴走。
≪山上容疑者の動機は、全く変わらなくてもだ。
我々に伝わってくる容疑者の動機はそれほど定まっていない、標的を変えられるほど、いい加減で、あやふやなものだ。≫
いやいや、明確だ。旧統一教会のトップ。それがダメなら、トップに準じる目立った人物。そういう人(たち)に憎しみの焦点は絞られている。
≪彼の本当の恨みの矛先は何か?
私は母親だろうと思っている。山上容疑者が向き合うべきは母親だった。彼はそれをごまかしている。≫
恨みの矛先は母親を奪った旧統一教会だ。それ以外にはない。太田氏にはまだそれがわからないのか。
≪容疑者が感じていたのも「言葉の無力」だ。
言葉が通じなくなった母親。母親の言葉を理解出来なくなった自分。≫
「言葉の力」「言葉の無力」の話でまとめたい太田氏の勝手な決めつけ。
≪容疑者は、本当は母親の言葉を取り戻したかった。そして自分の言葉を母親に理解させたかった。心の奥まで届けたかった。そういう言葉を持ちたかった。しかしそれはどうしても叶わず、彼は言葉に失望し、諦め、絶望し、言葉を捨てたのだろう。あるいは初めから言葉など信じていなかったのかもしれない。≫
勝手に物語を作って悦に入っている。
≪この問題は、まだまだ終わらないだろう。≫
この問題? まだまだ終わらない?
そもそも太田氏が問題にしていることがズレているから、その終わりが何なのかもわからない。
≪この本の中に「ジョーカー」という章がある。その中で私はホアキン・フェニックスのジョーカーよりも、ジャック・ニコルソンのジョーカーの方が好きだと書いた。
ホアキン・フェニックスのジョーカーは、やけに深刻ぶって、シリアスで、ちっとも笑えないからだ。
ジャック・ニコルソンのジョーカーは、コミカルで滑稽で楽しくて笑える。
ホアキン・フェニックスは映画の中で「僕の人生は悲劇だと思っていたけど、喜劇だ」と言う。
主人公が「これは喜劇だ」という映画は、決して喜劇ではない。喜劇映画の主人公はいつも物語の中で何をしてもうまくいかず、スベって転んで悲劇を演じているものだ。
その「悲劇」を客が見て笑い、「喜劇」に変えるのだ。≫
私はどちらのジョーカーも観ているが、どちらが「好き」という感覚を持ったことはない。どちらのジョーカーもその映画が作られた時代を反映している。ホアキン・フェニックスを主人公にジョーカーの映画を作った人たちは、観客に笑ってもらうためにこの作品を作ったのではない。そういう時代ではないのだ。お人好しだった主人公が周囲から疎まれ、ばかにされ、唯一心の支えにしていた母親も実の母親ではなかったという現実を突きつけられ、誰を支えに、何を支えに生きて行けばいいのかわからなくなるという絶望の淵に立たされ、自ら、これほどの悲劇は喜劇と呼ぶしかないと、悲しみのどん底を「喜劇」と説明するしかなくなっているのだ。主人公以外の登場人物たちのふるまいをみていると、この人が親切にしてくれていれば、あの人が親切にしてくれていれば、という場面がいくつも出てくる。映画は社会がジョーカーを生んだのだと言っている。映画は最後、ジョーカーだらけになる。ジョーカーに至るまでの悲劇は無数の人たちにもあるというメッセージだろうか。なかなかいい映画だと思った。2度観た。やはりいい映画だと思った。日本ではウケないだろうと思ったが、映画館はまずまずの入りだったし、ホアキン・フェニックスはこの作品でアカデミー賞主演男優賞を受賞した。アカデミー賞もときにはちゃんとした作品を選ぶのだと思った。
太田氏は≪ホアキン・フェニックスのジョーカーは、やけに深刻ぶって、シリアスで、ちっとも笑えない≫と書いている。太田氏は笑えるか笑えないかという二分法でしか考えていないらしい。笑えなくてもいい作品があるという基準を持っていないらしい。
≪山上容疑者のものとされるツイッターの中に映画「ジョーカー」の写真を載せたこんな呟きがあった。
「ジョーカーという真摯な絶望を汚す奴は許さない」≫
太田氏はなぜこの箇所を引用したのか。なんだ、こんなことを書いて、こいつは。くらいの浅さでしか読んでいないのではないか。山上がこのように書いた気持ちを全く理解していない。理解しようとする気もない。
≪ジョーカーも、山上容疑者も、母に裏切られ、孤独で、社会を憎んでいた。≫
ジョーカーは母親に裏切られたのではない。実の母親だと思っていた女性からそうではないと聞かされ、心の最後の支えを失ったのだ。山上の母親も山上を裏切ってはいない。母親に戻って来てもらいたいという山上の祈りともいうべき切実な思いを母親に受け止めてもらえない苦しさ。どちらも母親の裏切りではない。
≪そしておそらく、自分を「悲劇の主人公」だと思い込んでいた。≫
ここでまた太田氏の得意な、「おそらく」。で、「思い込んでいた」という決めつけ。思い込んでいるのは太田氏の方だ。
≪確かに気の毒な境遇ではあるが、冷たい言い方かもしれないが、この世界は誰にとっても残酷だ。≫
こういう一般論で切り捨てるか。私がかつて法廷でみた、できの悪い検察官、刑事裁判官みたいだ。
≪ホアキンのジョーカーは言う。「自分を偽るのは疲れた。喜劇なんて主観さ。そうだろ? みんなだって。この社会だってそうだ。善悪を主観で決めている。同じさ。自分で決めればいい。笑えるか、笑えないか」
私もこの言葉には全く同感だが、この後ジョーカーは言葉と裏腹に、彼自身笑えない道を選んだ。自分に嘘をついて。そして同じ、社会に不満を覚える人達の救世主となり、もてはやされる。彼はどこまでいっても単なる悦に入った凡庸な悲劇の主人公だ。≫
太田氏はジョーカーの言葉には全く同感だと書いたすぐあとに、≪この後ジョーカーは言葉と裏腹に≫と書いているが、ここに太田氏の言語の理解能力の低さが現れている。
言葉は言葉を発した人の真意を常に表しているわけではない。その人がその言葉を発するまでに生きて来た過程を知ることによってその人の発する言葉の意味がより正確にわかる。映画はそれがわかるようにできている。
ジョーカーが≪自分を偽るのは疲れた≫と言っているのを文字どおり受け止めてどうする。ジョーカーは周囲に受け容れられるよう自分なりにいろいろ努力していたのだ。それは偽りではない。そして、何もかもうまくいかなかったという思いに至ったとき、自分の過去の努力を≪自分を偽る≫という言い方をするしか気持ちの納まりようがなかったのだ。
≪喜劇なんて主観さ。≫にしても、主人公はもともと喜劇を共感だと思っていたのだ。それを主観と断定したのは、他者との共感を失ったからだ。その心の変化が太田氏にはわからない。
≪みんなだって。この社会だってそうだ。善悪を主観で決めている。≫も、主人公はもともと善悪を個々人の主観ばらばらでいいなどとは思っていなかった。社会から孤立したと思いつめた時に、≪善悪を主観で決めている≫という決めつけるように変わったのだ。そういう変化が太田氏にはわからない。
だから、≪私もこの言葉には全く同感だが、この後ジョーカーは言葉と裏腹に、≫という逆説になって行く。これは太田氏がジョーカーが言っている言葉を字面でわかったと思い込んでいるだけで、深く理解しようとしなかったことに問題があるのであって、主人公の言葉とその後の行動は完全に連動している。
≪「喜劇なんて主観さ」
その通り。≫
と太田氏は念を押す。が、そこがそもそも違う。喜劇は共感だ。「劇」とあるとおり、演じる側と見る側があって成り立つ共感の世界だ。ただ一人の内面だけは成り立たない。