死刑囚が証人、の不可解

3月29日、1995年の公証役場事務長拉致監禁事件の
逮捕監禁罪などで起訴されたオウム真理教元幹部の平田信
公判前整理手続きで、東京地方裁判所(斉藤啓昭裁判長)は、
教団元幹部で死刑判決が確定している井上嘉浩、中川智正
林泰男の証人尋問を決めた。
ニュースになっていたので知っている人もいると思う。
が、なにか違和感を感じないか。


この証人申請は、検察側が平田の有罪立証を目指して行った
ものである。平田の裁判で、検察側が3人の死刑囚の証人尋問
を申請していた。地検は「死刑囚の心情の安定のため配慮が
必要」と公開の法廷での尋問でなく、3人が収容されている
東京拘置所での尋問を求めているそうだ。


死刑囚が公開法廷に立つことになれば、なんでも初物好きの
マスコミの報道が過熱し、一般の人々も裁判所に殺到するに
違いない。そして、死刑囚の服装、態度、表情、言動、なにも
かもが「事件」として注目され、報道されることになるだろう。
死刑囚を公開法廷に立たせるということは前例がないから、
大騒ぎになるのは当然だ。


この点について、検察側は、拘置所内で非公開で証人尋問を
したいと言っている。これに対して、地下鉄サリン事件の被害者
や遺族などは公開法廷で証人尋問することを強く望んでいる。
非公開手続になれば、これまでオウム関連裁判を傍聴してきた
人たちは、だれも傍聴できない。地下鉄サリン事件の被害者ら
もだ。傍聴を望むのは当然だ。だから、証人尋問を公開法廷で
やるかどうかは、重要な問題だ。


しかし、そういうことよりもっと根本的な問題として、死刑囚
は証人になり得るかという疑問がある。
死刑囚は、検察官が裁判所に死刑判決を求めた人だ。「あなた
は人として生きている価値がない」と名指しされた人だ。そして
裁判所も「あなたは生きている価値がない。この世から抹殺する」
と宣告した人たちだ。弁護団を初め、世の中には死刑を望まない
人たちがいたに違いないが、それでも検察官と裁判所は、「あなた
は生きている価値がない」と断言したのだ。


死刑は生きている価値がない人に対する刑罰だから、死刑囚に
なった人には事件への反省は求められない。死刑判決確定後、
死刑が執行されるまでの間の時間は刑罰ではない。ただ死刑執行
を待つだけの時間だ。それ以外、その人にはなにもない。なにも
期待されていない。


その検察官が、生きている価値がないと結論づけた人たちに向かって、
「法廷で真実を語れ」と求めて来た。言われた死刑囚の側は、「え、
何で自分が」と思うはずだ。


裁判所が証人とすることを決定し、出頭を求めた場合に、出頭を
拒否したらどうなるのか。刑事訴訟法では、「証人として召喚を
受け正当な理由がなく出頭しない者」については、10万円以下
の罰金又は拘留(30日未満の拘置所への拘束)に処するという
罰則規定がある(151条)。通常の社会生活を送っている人に
とっては、これは一定の心理的強制になるかもしれないが、死刑囚
は10万円を持っていないかもしれないし、死ぬまで(正確には、
殺されるまで)身柄を拘束されているから拘留したところで特に
生活に重大な変化があるわけでもない。


死刑囚が法廷に出て来て、宣誓(155条)を拒否したらどうか。
「正当な理由」がなく、宣誓を拒否したら、10万円以下の罰金
又は拘留に処するという罰則がある。罰金と拘留、両方とも科される
こともある(161条)。こんな刑罰は、究極の刑罰を言い渡されて
いる死刑囚にとって何のおそれにもならない。宣誓を拒否するかも
しれない。


証人の宣誓書には、「良心に従って、真実を述べ何事も隠さず、又は
何事も付け加えないことを誓う」旨が記載されている(刑事訴訟規則
118条2項)。死刑囚は、裁判所によって、人として生きている
価値を完全に否定された存在なのだから、その裁判所に、「良心に
従って」証言しろと言われても、素直に「はい。わかりました」とは
ならないのではないか。

良心に従って証言してもらうには、どうすればいいか。その対応策は
1つしかない。人として生きている価値を認めることだ。死刑囚も、
検察官も、裁判官も、弁護人も、その他一般の人々も、だれもがお互い
を生きている価値がある存在として認めあってこそ、死刑囚に良心を
求めることができるのではないか。生きている価値があることを認める
ということは、死刑判決の否定、撤回ということになる。それができて
こそ、良心に従って証言することを求めることができるのである。
それができないのなら、死刑囚に宣誓を求めるべきではないし、どんな
出鱈目を証言してもだれも文句を言うべきではない。
正義は単純な厳罰論では実現しない。