校歌の曲の変更はだれのため?

 小学校の校長先生が覚せい剤を持っていて逮捕されたことに関連して、
この人がかつて作曲した小学校の校歌が2つあり、うち1校が、速攻で、
歌詞は変えずにメロディーを変更する方針を決めたそうだ。

 犯罪者が作曲した曲など子どもたちに歌わせるわけにはいかない、し
かし、作詞家は別人でその人には何の責任もないから歌詞はそのまま
にして子どもたちに歌わせよう。
 そんな考え方かな。

 それもそうかな、と思いつつ、・・・いやいや、これはどうもおかしい。

 どこがおかしいかというと、この曲を作曲していたとき、校長はこの小
学校で学び育って行く子どもたちのことだけを考えていたはずだ。子ど
もたちが歌う歌なんだからテキトーでいいなんて思っていなかったはず
だ。
 子どもたちも、この曲を自分たちが育った場所の象徴として、それなり
に(すごく、かもしれない)気に入って、それなり(すごく、かもしれない)
の誇りに思って、歌ってきたはずだ。子どもたちは、歌っているときに、
校長の私生活がどうかとか、将来、校長が覚せい剤をやるかもしれない
なんて考えていない。

 と書いていて、ふっと、作曲家の小室哲也を思い出した。彼は5億円
詐欺事件で逮捕・起訴され、有罪になった。「5億円で執行猶予」は、「コ
ンビニ弁当の万引きで実刑」の現実を日々みているわたしからすると、
かなり驚きだった。
 それはともかく、小室が逮捕されたとき、テレビから小室の作曲した曲
が一斉に消えた。この足並みのそろい方はちょっと怖い。でも、カラオケ
の世界にはそんな「規制」はない。好きな人はいくらでも勝手に歌ってい
た。
 そして、いまでは懐かしい曲としてふつうに出ている。自然復活?

 で、小学校の校歌。
 大人たちはさっさと曲を変えると決めたようだが、この曲を校歌として
歌ってきた子どもたちの意見はどうなのだろうか。
彼らはどう思ってい
るのだろう。今後、小学校の同窓生として集まったとき、自分たちの心
に滲み込んでいる曲で校歌を歌ってはいけないのだろうか。恩師の先
生は一緒に歌ってくれないのだろうか。いけなくはないとしても、新しい
曲で校歌を歌う後輩たちとは一緒に校歌を歌えない。そういう壁をいま
急いで作る必要があるのか。

 校長が作曲した曲は、多くの子どもたちに歌われるようになった時点
で、もう校長ひとりの財産ではなくなっている。
その小学校を卒業した
子どもたちひとりひとりの頭脳の中に重要な記憶の一部として他の記
憶と一緒に入り込み居座ってしまっている。それを後から起こった個人
的な「事件」で、一部の大人たちの思いつきで断ち切るというのは、あ
まりにも強引ではないか。

 子どもたちはこの曲を気に入っているのであれば、これからも歌い続
ければいい。いまの在校生たちも歌い続ければいい。後輩たちにも歌
って教えればいい。嫌いなら、さっさとさよならして、小学校校歌は生涯
歌わないことにすればいい。
 子どもたちが歌い続けるという選択をしても、歌わない歌えなくなると
いう選択をしても、校長は自分がだれを傷つけているかをずっと思い続
けなければならなくなる。
そういう校歌があってもいいのではないか。