弁護人の弁護活動こそ注目すべきだ

友人から、野々村元県議の刑事公判のことで、メールがあった。
「マスコミは野々村元県議をさらし者にしているけれど、あのような放送で、政務活動費
の支出の適正化に進むはずがない」という趣旨。
そのとおり。

マスのコミュニケーションは、構造上、無数の顔がみえない人たちだれにも関心を持っ
て欲しいと考えて情報を発信しているので、ふだんそれぞれ自分の関心事にしか意識
が向かわない人たちに振り向いてもらうために、さまざまな仕掛けをしなければならな
い。深く考えている者からすると、「それは的外れだろう」と言いたくなることが結構ある
だろう。
困ったものだが、仕方がないか。・・・でも、だ。

そもそも、あの号泣記者会見がリアルタイムで全国に放送されたのも、「映像的にすご
くおもしろい絵が撮れる」という取材現場の判断と、テレビ局の判断が一致したからだ。
これによって社会正義を実現しようとしているわけではない。
マスコミの放送・報道に正面から社会正義を期待することが、そもそもまちがっている。

マスコミの放送・報道のなかの情報から、わたしたちひとりひとりが、この放送・報道の
内容、放送・報道の仕方のどこにどういう問題があるかを考えることこそに意味がある、
と考えるしかない。

その問題は究極には1対1の対話でも起こっている。相手が言っていること、言いたいこ
とと、聞いているこちらが聞いている、納得している、考えさせられることは、必ずしも同
じではない。それで対立が生じることもあるし、それでおもしろいと思えることもある。他
人の言うことを丸呑みするのではなく、自分なりに考えながら受け止める。そこが自分の
外から情報を得る醍醐味なのだ。

野々村元県議の刑事裁判についてみると、起訴事実そのものの立証の準備は検察側で
十分にしているはずだ。
なぜなら、この事案は、だれが犯人か皆目わからない事件で、警察官が大量動員されて
犯人を血眼になって捜し、突然、だれかを被疑者として逮捕したというような冤罪事件の
類(たぐい)とまったくちがう。起訴事実を裏付ける客観的な証拠があ
るはずで、なければその部分は起訴の対象から外すという捜査対応をしているはずの類
型の事件なのだ。

だから、たぶん、多くの弁護士は、野々村元県議が有罪になるかならないかにはほとんど
関心がないと思う。

弁護士が関心を持つとすれば、野々村元県議の弁護人の弁護活動だ。
マスコミのさらし者になって、混乱しまくっている依頼者(被疑者)のために、弁護人として
どうすることがよいの、なにができるのか。できることは、そのときどきで同じではない。野
々村元県議をマスコミのさらし者になることからどう守るかは、弁護人の力量が問われる
ところだ。

野々村元県議の勾引は、野々村元県議の出頭への不審から裁判所が下した判断だが、
その前提には、弁護人が確実に野々村元県議を法廷に連れてきてくれるとは思えない、
という判断がある。
号泣記者会見のときからマスコミの注目を集めている野々村元県議であるから、裁判当
日の出頭を確保するために、弁護人が十分な対策をとる必要があった。それを全くしてい
なかった。そういう問題があることに気がつかなかったのか、気がついていたが対応する
気が無かったのか。どちらにしても、弁護人の対応ミスであり、裁判所が野々村元県議と
弁護人に対して強い不審感を抱いたのが原因で、野々村元県議の勾引が決定されたの
だ。

法廷での野々村元県議の供述も、「記憶にない」の連発で、相当ひどかったらしい。
これでは、一般傍聴人が呆れるだけでなく、多くの被告人をみてきた裁判官でも呆れる。
野々村元県議にとって本当に記憶にないことだらけなのであれば、弁護人は法廷で野々
村元県議にその理由、原因をはっきり説明させないと、法廷でも野々村元県議はさらし
者になってしまっただけのことだ。

弁護人にとっても、野々村元県議は意思疎通がむずかし人で、打ち合わせがうまくで
きないのかもしれない。
しかし、弁護人を引き受けた以上、野々村元県議のために最善
の弁護活動をすべきであって、そのためには、野々村元県議を理解できるまで何度でも
何時間でも話し込んで、弁護方針を組み立て、言葉数は多くなくても構わないから、野々
村元県議が法廷で話しやすいようにしてやり、裁判官や傍聴人にちゃんと伝わる供述が
できるようにしてやるべきだ。

放送の前日、テレ朝から番組への出演依頼があったとき、番組スタッフから野々村元県
議が勾引されたことを聞いて、つい、事務所の弁護士に、「野々村さんの裁判て、弁護
人なしでできるんだっけ?」と質問してしまった。

登録番号からすると、弁護人は新人ではない。ベテランだ。それでもかなりむずかしい
のだろうが、ぜひ、世間一般の人々を唸らせるような、いい仕事をして欲しい。