介護殺人の弁護

もう10年以上前になるだろうか。
年末。当番弁護士で、介護していた認知症の妻を殺したという夫の被疑者弁護を担当
したことがある。

早速、警察署の留置場接見室で、夫に面会した。事件があったとき、夫は言うことを聞
いてくれない妻にカッとなって突き飛ばした。妻が仰向けに倒れ、そのまま起き上がら
ず、反応がなくなり、亡くなってしまったという。

妻に殺意を抱いていた印象を全く受けなかった。
妻が倒れ込んだ場所は布団の上。おそらく外傷はない。おそらく、というのは、死体の
鑑定書をみていないので。
布団の上に仰向けで倒れたくらいで死ぬだろうか。
突き飛ばしたことが傷害致死になるだろうか。

別居していた息子さん、区役所の職員、近所の人たちの話から、夫の介護ぶりがわか
った。夫は、定年を前に会社を辞めて、以来10年前後だったか、日々、誠心誠意、妻
の介護に尽くしていた。心身ともに疲れ果て、カッとなって妻にあたる(暴力?)ことは、
それまでにもあったようだ。それでも、介護し続けていた。
夫にとって認知症がひどくなっている妻の存在は苦痛だったにちがいない。が、それ
だけではなかったにちがいない。だから、いつまで続くとも知れない介護をし続けてい
た。「いなくなってくれれば」という思いが頭をよぎったことがあったとしても、それは犯
罪としての殺意というようなものではない。

妻の人生の終着点が夫による妻殺し、という汚名を着せたくなかった。
警察、検察がこの現実を理解し、納得してくれるか。

当時、妻が服用していた認知症の治療薬に問題があったのではないかと疑っていた。
起訴されたら、死因について徹底的に争うつもりでいた。

年末ギリギリだったか年明け早々だったか。検察は、夫を嫌疑不十分で不起訴にした。
夫には殺意もなければ、殺人の実行行為というべきものもあったとは言えない、という
こと。

刑事弁護士は終わった。
夫は妻殺しにならずに済んだ。よかった。当時、わたしはこれで事件は解決したと思っ
ていた。夫が留置場から出たときに少し話して別れたと思う。そこで意味のある話がで
きていたか自信がない。

夫は、逮捕されようがされまいが、亡くなった妻と、最期のときのこと、介護中のこと、
それ以前のこと、いろいろ話し合ったにちがいない。刑事事件の捜査はとっくに終わっ
ていても、夫婦の対話はずっと続いている、きっと。
夫婦の側からみると、突然、私生活に入り込んで来た、警察官、(令状)裁判官、検察
官、弁護士はどういう意味がある存在だったのだろうか。