言論の自由とは何か?

 特定秘密保護法の重罰規定が言論の自由を圧殺する。
 特定秘密保護法に反対する人や新聞はそう指摘する。わたしもそういう危険があると考えている。
この点では共通認識だ。

 しかし、深いところで共通認識になっているかどうかはわからない。
 表面的な言論の自由ごっこではない、自分たちの生存を掛けた言論を守るという意味での言論の
自由が特定秘密保護法によって圧殺されるのかということになると、どうだろうか。

 言論の自由は言論に責任を持つという基盤の上にのみ立つ。 真剣な言論は、多くの人々が気づかない、あるいは多くの人々が直視しようとしない現実(歴史的
事実)を抉り出すので、広く人々に喜ばれるよりも、人を深く傷つけたり、人を窮地に追い込んだり、
ときには国の信用を大きく損なうことだってある。

 それでも、現実を直視せよ。
 そう言いながら、とんでもない虚偽を事実として社会に訴えてしまったときには、全面的に責任を
引き受けなければならない。
どのようにすることが責任を引き受けることになるかは一律ではない。
その言論の内容や与えた影響の広がり、深さを見据えて、誠実に実行しなければならない。

 それができないなら、以後、言論の自由を口にすべきではない。
 批判する側も、だれもがその危険を背負いながら言論の自由を行使していることを自覚すべきだ。

 週刊文春2014年9月11日号『スクープ速報』によると、ジャーナリスト・池上彰氏が朝日新聞
対して、月に一度の連載『新聞ななめ読み』の中止を申し入れたそうだ。

 池上氏は、8月末の予定稿で、慰安婦報道検証を取り上げ、「朝日は謝罪すべきだ」と書いたとこ
ろ、朝日幹部が「これでは掲載できない」と通告され、池上氏から連載の打ち切りを申し出たとのこ
とだ。

 朝日新聞は、特定秘密保護法に圧殺される前に、自分で言論の自由の担い手であることを辞め
ようとしているのではないか。

 この疑問は決して朝日新聞だけに当てはまるものではない。現・高知新聞記者の高田昌幸氏が
北海道新聞の記者だったころのことを書いた『真実』(角川文庫)を読むといい。新聞社の組織とい
うものがよ〜くわかる。

 こんなことを書いたからと言って、日本の新聞社や新聞記者を蔑んでいるのではない。多くの人
々が、真に言論の自由を守ろうと考えるなら、新聞社や新聞記者が置かれている現実を直視して
ほしい、と言いたいのだ。

 新聞は言論の自由を守っていないかもしれない。多くの人々がそう疑うようになったときから、
新聞の言論の自由のための本当の闘いが始まるのかもしれない。