臨終に立ち会えなくても臨終を知らせる意味

新生コロナウィルスが蔓延しつつある時期だけに、いま、病院は「万全の体勢」で日々業務に従事しているんでしょうね。

 

病院は様々な病気を持った身体の弱った人たちが集まって来る空間なので、いつも感染症の宝庫です。通院患者が新たな病気をもらって家に帰るということは日常的な出来事なのかもしれません。それがほとんど問題にならないのは、通院患者も入院患者も医療従事者も一定の免疫力を持っているからでしょう。

 

だから、新たな感染症には弱い場所です。通院患者も入院患者も医療従事者も同じ危険に晒されています。新型コロナウィルス問題はこれまで人類の歴史に類例のない大事件です。病院が病院内の人たちの安全と医療体制の維持のために最大限の努力をしようとするのは当然です。病院とすれば、「俺達は必死でやっている。この苦労が外の人間にわかるか」という心境かもしれません。

 

しかし、何週間も家族にも友人にもだれにも会わせてもらえないまま亡くなった友人の父親、何週間も面会謝絶で臨終にも立ち会わせてもらえず、臨終を教えてさえもらえず、不安な日々を送っていた母親は、どれほど心細かったことでしょう。それを気遣う子どもたち。突然の訃報に、どうして夫の、父親の死に目にも会わせてくれなかったのか、どうして死ぬまで何も教え得てくれなかったのか、という不審と怒りが生じてもおかしくありません。

 

病院スタッフ全員が必死だということはわかっている。なのに納得ができない。どうしてこんなふうにこじれてしまうのか。問題は病院側からの情報発信のあり方にあるのではないでしょうか。

 

友人の父親が入院したときに新型コロナウィルス問題はすでに日本でも起こっていました。ただ、まだ深刻さは中国やEUに比べて低い状態でした。

それでも、病院として新生コロナウィルスの感染(拡大)を防ぐ方針を立てて、家族や知人など外部からの訪問に関する制限を従来と異なるルールですでに行っていたのかもしれません。そうであれば、どのように変えたのかを事前に家族に説明すべきです。

入院後に変更したのであれば、その時点で家族に面会のルールが変わったことを説明すべきです。外部の者の面会を認めないようになったのであれば、入院患者の日々の容体をだれにどのように知らせるかを決めておいて、実行すべきです。その報告があるだけでも、会えない家族は入院している家族を心の中で励ますことができます。

 

入院患者が臨終になったときでも面会を認めないのであれば、臨終状態になったことをだれに知らせるかを事前に決めて、実行すべきです。臨終になっても会えないのなら意味がないから教えないと考えて、病院は臨終を教えないことにしたのでしょうか。

そもそも臨終の患者の周りに人が集まることに何の意味があるのでしょうか。いくらたくさんの人が集まっても臨終の人が生き返るわけではありません。それがわかっていながら、人はなぜ臨終の場に立ち会うのでしょうか。生から死へ移っていく時間を死にゆく人と共に過ことに何か特別な意味があると感じているからなのではないでしょうか。

それは場所が離れてしまったら無意味になってしまうのか。そうではないのではないでしょうか。家族が病床で臨終状態にあるということをリアルタイムで知らされるだけでも、離れた場所から、死ぬまでの時間を心の中で共に過ごすことはできるはずです。そこには当事者だけにわかるなにがしかの意味があります。