『絶歌』を読みたい!
6月10日、神戸連続児童殺傷事件(1997年)の実行行為者、「酒鬼薔薇聖斗」
(少年A)の手記『絶歌』(太田出版)が出版されたことを、インターネット上で知り、
読みたいと思い、書店を探したが、大きな書店にも見当たらなかった。
買い占めか、とも思ったが、どうも、販売自粛だ。
マスコミも書店も、所詮は、多数派を形成する「世論」に批判されるのが嫌い。
大昔、中国では秦の始皇帝が自分に都合の悪い文書を燃やしてしまうという焚
書をしたが、いまの日本ではマスコミや書店が秦の始皇帝になっている?
『週刊文春』『週刊新潮』の記事から垣間見える本のできはどうもよくない。出版
社もいい出来だとは思っていないらしい。・・・となると、買う価値があるか。
・・・が、それでも私は読んでみたい。
わたしは、そもそも、少年Aがだれにでもわかりやすい言語で、心から反省して
いるように読める文章を書くとは思っていない。そうなるとも思えない。あの事
件は、犯人が反省するかしないか、というレベルで評価すべき事件ではない。
どんなに贔屓目に考えても、ふつうの人たちが求めるのと同じ内容の反省は、
少年Aにはあり得ない。反省を求めること自体が、偽善であり、ニセの正義であ
り、どうかしている。
なにごとにつけ、だれもが全く同じ過ちについて同じ内容の反省をすることなどあ
り得ない。実際は人それぞれなのだ。同じ内容の反省をしていると思っているとす
れば、それはおめでたい。そんな錯覚に陥っているのは、反省の中身の掘り下げ
が足りないからだ。
少年Aの側に変化を求めるのが誤りなのだ。
わたしたちがあのような事件を繰り返したくないのなら、わたしたちこそが学習
すべきであり、わたしたちの側こそ変化すべきなのだ。それは、少年Aは何を考
えていたのか、なぜあのような行動をとったのか、そのような少年Aが年月を経て
どのような考えになっているのか、それをわたしたちはどう受け止めるか。
少年Aには、自分と同じような人間が生まれることを止めることはできない。それ
ができる可能性があるのは、少年Aの過去といまを深く考え抜こうとするわたした
ちの側なのだ。少年Aが折角、少年Aを理解する教材を与えてくれようとしている
のに、それを見ないという選択をしてしまうことは、社会にとって重大な損失だ。
だから、わたしは『絶歌』を読みたい。