付属池田小事件15年目の追悼式典

≪児童8人が犠牲になった大阪教育大付属池田小学校(大阪府池田市)の乱入殺
傷事件は、8日で発生から15年となり、追悼式典「祈りと誓いの集い」が同校で開
かれた。遺族や在校生、教職員ら約1300人が出席。犠牲になった児童の冥福を
祈り、子供たちが安全に過ごせる学校をつくることを誓った。≫

池田小事件から15年も経ったのか。
あの事件は、日本の小学校ではどころか、それまでの日本社会では考えられなか
った衝撃的な凄まじい事件だった。
が、この追悼式典「祈りと誓いの集い」はどこまで考え抜かれたものだろうか。

≪事件発生時刻の午前10時12分、犠牲になった8人の名前を刻んだ「祈りと誓
いの塔」の鐘を児童代表が鳴らし、出席者全員で黙とうした。佐々木靖校長は「事
件当時の子供たちが大人になり、就職や進学をしたという報告を受けるようになっ
た。事件をきっかけに、人の命を救いたい、人の役に立ちたいとの思いが強くなっ
たという話を聞くとうれしく思います」とあいさつ。在校生には「この学校で学んだ
ことを忘れず、人を守る側の人間になってほしい」と語りかけた。≫

校長の挨拶は如何にも無難な形式的な言葉のような印象を受ける。
「人を守る側の人間」?なんだ、それは。
まるで、世の中には、人を守る側の人と、そうでない側の人の二種類がいるみたい
だ。そんな単純なものじゃないだろう。「人を守る側の人間」だったら、舛添都知事
を守る元検察官(ヤメ検)弁護士みたいな人になってほしいということか。

≪児童代表の6年生は「ただいま、と笑顔で家族に言えることが当たり前ではな
いと気付いた。つらく悲しい事件のことを忘れず、安全教育で学んだことを発信
する」
と誓った。≫

「当たり前ではないと気付いた」? 本当か?
「安全教育で学んだことを発信する」とは具体的にどういうことだ?
小学6年生でこんな抽象的なことを考えるなんて不自然だ。本当に自分の言葉
か?おとなに言わされている言葉ではないか。そうであれば、15年前に殺され
た、もっと生きたかった子どもたちと向き合っていることにならない。

≪式に先立ち、池田小の体育館では、亡くなった児童の一人である戸塚健大(た
かひろ)さん(当時6歳)の母正子さんが、在校生の保護者に講演した。遺族が8
日に池田小で講演するのは初めて。正子さんは「学校は、大切な命を預かってい
るということに責任を持ってほしい。一番危惧しているのは、事件が遠い過去の不
幸な出来事として風化していくことだ」と訴えた。≫

≪戸塚正子さん講演(要旨)

あの日の朝、「いってらっしゃい」と後ろ姿に声を掛けたのが最後だった。しっかり
顔を見なかったことを今でも後悔している。どうして健大の命が奪われてしまった
のか、考えても答えのない問いかけに苦しんだ。事件の後、教室に行くと、机には
健大の写真が飾られ、引き出しに折り紙や木の実をいっぱい入れてくれていた。
健大が友達の心の中に生き続けているのだと感じた。今、最も不安なのは、事件
が遠い過去の不幸な出来事として捉えられること。子どもたちが安全な学校生活
を送れることは、決して約束されたことではない。保護者が学校に大切な命を預け、
学校がその命を預かっているという自覚をそれぞれが持ち、適切な行動をとっても
らいたい。≫

いろいろな意味で、「子どもたちが安全な学校生活を送れることは、決して約束さ
れたことではない。」という指摘はそのとおりだ。

が、もう1つ大事な議論がこの追悼式典には抜けている。
犯人の男は死刑判決を受け、2004年9月に刑が執行された。男がこの世から
いなくなったことで、何が解決したか、遺族になにをもたらしたのか。